少年の主張

第34回 「少年の主張」鳥取県大会 最優秀作品
• 2012, 10, 17

最優秀賞(県知事杯)作品
題名   「キモイ」って何?                             倉吉市立東中学校 3年 山田 颯亮

 「キモイ」、すれ違いざまにそうささやいて彼女は通りすぎる。僕の何を理解してそんなことをいうのか。学校で人権学習をして「言葉」について話し合った。しかし僕の心はさめていくばかりだ。なぜ僕は「キモイ」といわれなくてはならないのか。
 友だちを見ていると「キモイ」という時の使い方にいろいろあることがわかる。すごく真面目な言動をしている人に対して「キモイ」と言ってみたり、自分たちのグループとは気の合わない人を見つけては「キモイ」という。僕に対しての「キモイ」はどれなんだろう。
 僕は生まれつき、重度のアトピー性皮膚炎だ。見ての通り顔だけでなく身体のいたる所に炎症があり、幼い頃から神戸・和歌山・高知と病院を転々とした。一カ所一ヶ月以上滞在して治療することもあり、学校に登校できる日数も少なくなった。自分の身体の変化や症状に苦しみながら、薬をのんだりつけたりする生活は僕にとって負担が大きかったが、それ以上に久しぶりに学校に行く時の友だちの視線や態度に「拒絶」を感じる辛さも大きくなっていった。小学3、4年ぐらいになるとさすがに勉強の遅れもひどくなり、だんだんと学校に行きづらくなっていった。教室にいて、かゆみやかゆみからくるイライラと闘いながら、心ない「言葉」や「目線」に言い返すことにも疲れ切ってしまったのだ。その頃、僕に向けて口汚くののしった人に対して大人は「心の病気なんだから我慢して・・・。」というようなことを言ってその場を収めていた。なんだ「心の病気」って。僕は全く納得できていない・・・未だにだ。そうやって僕は5年生になった。周りからのよそよそしい視線の中で“ひとりぼっち”だった。  
 そんな僕を救ってくれたのは友だちだった。彼は何のためらいもなく僕に話しかけてくれた。家に行き来してゲームをしたり、本当に楽しく遊べたのだ。家族以外に心を通わせる人がいることの楽しさを知ったのだ。まさに「心の病気」になりかけていた時だったから彼という友だちの存在は大きかった。
 ところが、6年になりアトピー性白内病にかかってしまった。このアトピーは僕の目まで奪おうとしたのだ。両目ともだったので自分の見ている世界は白くなってしまった。黒板の字はもちろん、友だちの顔が見分けにくくなるほどで、見えないことの辛さも味わった。まもなく両目とも手術ということになり、学校を休まなくてはいけないことを辛いと思った。僕は確実に友だちといる時間を楽しいと思い始めていたから。
 気付いたことがある。小学生時代のアトピーとの闘いを通して、僕は友だちとの教室で過ごす普通の日々をすごく大切だと思い始めたことだ。僕の周りの友だちがしゃべっていることがおもしろくて、つい笑えたり、授業中に班で話して発表したりという普通のことが僕は今楽しい。僕の周りのみんなも外見だけ見てその違いから、僕をあからさまにからかい、ののしる人は減った。ただ少し距離を感じる。その距離は何なのか。その距離を作っているのは僕ではないのか。僕は明らかにみんなと食生活が違う・・・というか変えなければ症状は悪化する。給食も食べられない時は弁当を持参する。学習の遅れもある。運動や宿題をやろうと思っても、かゆみで集中できなかったり、そもそもわからなくて提出できなかったりもする。そのことを僕はクラスのみんなにちゃんと伝えていない。みんな僕のこんな様子を“なぜなのかな”と思って聞けずにいるに違いない。それなのに「言葉」にしないのは僕を傷つけるのでは、と気を遣ってくれているのではないかという気がしてきたのだ。みんなに言いたい。「僕は肉類や、乳製品全て、青魚、お菓子類など食事制限が多いです。家族を巻き込んでの食事制限の生活です。」
 でも、全て弁当ではなく、みんなとの給食をできるだけの範囲で楽しみたいと願っている。先生に言ってもらうのではなく「誰かこの肉食ってくれる?」と自分で声を発していきたい。それが僕の生き方だから。
 5月のスポーツ大会で自分の足の遅さや体力のなさを思い知らされた。あの日から夜走っている。クラスのみんなと声をかけ合ったことでつながりの一部になれたことが、かなりうれしかったから。「キモイ」とつぶやかれたことが吹き飛ぶぐらい楽しかったから。
 そして、みんなに強く言いたい。僕に対して言いたいことは、僕のことを知った上で悪口でも何でも、僕の目の前で言ってほしい。そして僕の言い訳か、本音に付き合ってほしい。僕自身がきちんと僕のことを伝えることで、みんなに向き合っていきたい。それでも僕は「キモイ」ですかと、にっこり笑って問いかけたい。

第33回 「少年の主張」鳥取県大会 最優秀作品
• 2010, 10, 21

最優秀賞(県知事杯)作品
題 名「命の大切さ」                             米子市立東山中学校 3年 田中 愛 

 私のおじいちゃんは、漁師と板前をしていました。おじいちゃんは、毎日中海や日野川に漁に出て、ワカメやカキ等を採って自分で調理し、お客さんに出していました。そんなおじいちゃんは、地域で有名ながん固者で思った事は全部口に出してしまいます。
 しかし、おじいちゃんは私には優しく、かわいがってくれました。私は、そんなおじいちゃんが大好きで一緒に漁に出たり、おじいちゃんお気に入りの演歌を歌っていたりしました。
 けれど、おじいちゃんは昨年の冬に急死しました。おじいちゃんは、がん固者だったので、ずっと体の調子がおかしい事を誰にも言いませんでした。病院にかけつけたのは夜中の二時でした。おじいちゃんは、ベットに横になり心臓マッサージを受けていました。そして静かに亡くなっていきました。私はあまりに急だったのでショックでおじいちゃんに近づく事も出来ず、ただずっと隅で泣いていました。生まれて初めて、身近な大切な人を亡くし、しばらく悲しみにくれていました。
 そんな矢先でした。東京で「東日本大震災」に遭ったのは・・・。
 私は、三月十日・十一日・十二日に家族と一緒に上京していました。三月十一日午後二時四十六分。母と二人で赤坂にいた私は、高層ビル内で強い揺れを感じ、あわてて外に逃げました。しばらく強い揺れが続き、町は人の群れであふれ、みな逃げたり叫んだり、しゃがみこんだりしていました。電話は不通、交通機関は全て停止、空にはヘリコプター。今まで生まれてから一度も見たことのない町の騒然としたおそろしい様子にこわくてぶるぶるふるえていました。私たち家族は、ホテルに帰ることが出来ず、渋谷駅で長時間途方にくれていました。
 その時でした。駅のテレビで、岩手県、宮城県、福島県が津波におそわれているのを知ったのは。
「日本が大変な事になってる。」
と、恐怖、不安、悲しみで胸がいっぱいになりました。
 その時、母の携帯に東京の友人からメールが届き、渋谷まで迎えに来てくれることになりました。友人は、いつもなら十五分で着くところを二時間かけて迎えに来てくれて、家に泊めてくれました。温かいお風呂。温かい夕食。そして、温かいふとんでねむらせてくれました。
 東京で今まで体験したことのない恐しさにでくわしましたが、同時に人の温かさに胸がいっぱいになりました。そして半年たった今、いろんなことを考えさせれています。
 まず、連日のニュースで被災者の方のつらく、悲しい様子に胸が打たれ一日も早い復興と被災者の方の元の生活がよみがえる様に願っています。
 また、地震で命を落とされた方、残された御家族の気持ちを思うと、いてもたってもいられなくなります。そんな時、私はおじいちゃんの死と被災者の方の死を重ねて考える様になっていました。人は命を与えられている限りその尊い命を大切に、心豊かに支え合い生きなければならないと思います。ある意味人の命は、はかないものです。いつか自分に死が来た時、自分の人生は、悔いなく自分らしい人生を送れたと思えることが大切だと気づきました。
 おじいちゃんは、諦めずがんばり続ける事を、東京の友人は困った時は助け合う事を、被災者の方は、生きる事の大切さを教えて下さいました。私は、学んだ事を胸に秘めて生かされている命に感謝し、精一杯生きていこうと心に決めています。

第33回 「少年の主張」鳥取県大会
• 2010, 10, 20